個性
今日は初対面の人ばかりの集まりに参加したのでちょっとそこから思ったことを書いてみる。
最近わたしがあそんでいる友達は年齢はばらばら。
大学生の女の子とお茶して今後の人生プランをおたがい語ったり。
真面目に語って話している相手は実は25歳前後だったり。
かたや同い年のように接してるけど実は何個も年上だったり。
同い年の同級生の友達とももちろん今でも仲良くたまに集まって近況報告しあったり、気兼ねない時間を過ごすことだってある。
何を思うかというと、
年齢じゃないんだよなーということ。
人って、自分と似ている人と群れるというか、居心地が良いと感じるものだとおもう。
学生の時って、きほん同級生しかいないから
その中で自分に近い仲間をみつけるとおもう。
なんだかしっくりこない感を感じながら、でもみんなの輪の中にはいたいという依存心との葛藤というか。
友達はふつうにたくさんいたけど
いわゆる女子グループが苦手で、結局誰と一緒にいたいのか本当はわからなかった。
専門学校に入って、今までのコミュニティーにいなかった人たちがいて
同じ、ファッションに興味がある自由度の高めな仲間に囲まれてたのしいと感じた。
バイト先で年上の女の人と仲良くなることが多く、全然共通点ないのに、なんだかすごく気が楽でけっこう年上の友達が増えた。
そのころの友達は10年たった今でもなんでも話せる。
どうして年下の自分に仲良くしてくれるんだろうと思うこともあったけど、同じ目線で話せることのほうがよっぽど大事だった。
ワーホリでオーストラリアに行って、できる友達は10代から30代といろいろで、
そしていろいろな国の友達ができて、
一緒にいたいと思えることが大事なんだなって。なんか、本当のありのままの自分が出せた解放感みたいのを覚えている。
ちなみに、海外では年齢は本当に二の次で、仲良くなってもしばらくおたがいの年齢を知らないということはふつう。
「あのひとは何歳なの?」って聞くと、「ん?いくつだろう、たぶん25くらいのはず」みたいな。
年上とか年下とか気にしないことに驚いた。
そもそも英語圏には敬語がない。(ビジネス場面や気を遣った丁寧な表現はあるけど)
そして出会ったその日からファーストネームで呼び捨て、またはニックネームで呼ぶのがあたりまえ。
日本人は自己紹介すると決まって、いくつ?と年の話になって、年が違えばそこから急に敬語やタメ語に自然とうつっていくというもの。
だから年が違うとなんだかぎこちなくなるんじゃないかな。
最近わたしは外国人の友達や海外にいったことのある友達とあそぶことが多く
それは海外かぶれといわれるかもしれないけど、
そうではなくて、
話していて気が楽だったり、共感しやすかったり、あたらしい価値観や意見をもらえたり、自分のことをそのまま受け入れてくれるからなのかなとおもう。
どうしても、一度海外の生活を経験したり、旅先で異文化に触れる経験があると
自分の頭の中は昔の自分になかった見方や考えを持っていたりしているもので
ずっと地元で同じ職場や仲間と過ごしている友達には、「すごいね」「よくできるね」となんだかふつうに話したいのに前にも後ろにもいかなかったりする。
逆に、早くに結婚して子供がいてマイホームがあって仕事も安定していて、私にはできないと「すごいな~」と言ってしまう自分もいる。
どちらも本当にそう思うからで、目線がちがうのだろう。
隣の芝は青いっていうやつかな。
どっちが良いとか悪いとかではなくて、それぞれの生き方がある。
話を1番最初に戻すと
今日の集まりの大半は外国人で、
若いのにびっくりするくらい落ち着いた考えや価値観をもっていて刺激をもらう。
生きてきた環境っていうのはその人の人格形成に非常に関係していくもの。
みんなと同じである必要はないし、人と違わなきゃと思う必要もない。
ありのままの自分でいられる周りにいる人を、大切にすること。
自分の弱い面も嫌なところも含めて、ありのままのわたしを心から愛してくれるパートナーに出逢えたわたしは奇跡だと思う。
運命の相手は、まさかの4つ年下のアメリカ人だったけど、
それもこれもいろんな出会いがあって
いろんな人を知って
いろんな選択肢があったからこそ
お互いを見つけることができたんだと思う。
もう30だから・・と年齢でものごとを考えるのは、ちょっともったいない。
いくつだって、その人の魅力がなにより大事なのだ。